めびうすのわ

読書日記という名の思考整理ブログ

友罪

友罪薬丸岳

(集英社文庫)(2018/07/28読了)

 

身近な人が実は殺人犯だったら…?

という比較的ありそうな話ではなく、

大切な人が過去に凶悪犯罪を犯した人だと知ったら…という題材だ。

 

鈴木は14才の時に2人の幼い命を無惨にも殺し少年院に送られた男だ。

作中でその事件は、センセーショナルな事件として世間を震えあがらせた「黒蛇神事件」と呼ばれている。

酒鬼薔薇聖斗を思い起こしたのは言うまでもなく、親しい人がその犯人だったら?という風に想像しながら読み進めた(著者はその事件をもとにこの物語を作ったわけではないようだが)。

 

……が、そんな想像できるわけもない。

そもそも私を取り囲む世界というのはあまりにも平和すぎて、これまでの人生で人の悪意というものすらろくに触れたことがない。

だから、作中の悪意の描写すら私には空想上の話にしか思えず、悪意というのは私にとって漠然としたものでしかない。

だから、もしも友人が凶悪犯罪事件の犯人だったら……なんて縁遠い話すぎる。いや、さすがにそれは誰にとっても縁遠いか。

 

とにかく、鈴木の正体を知ってからの益田や美代子の反応というのは、腑に落ちるような落ちないような…という感じだった。

 

美代子の反応は特に意外で、鈴木からの殺人の告白は受けとめていたし黒蛇神事件の犯人だと知ってショックを受けるのは違くないか、と思った。思ったが……

幼い子供の首を絞めつけた手で触れられ、目玉をくり貫いた手で愛撫された。その事実をあらためて突きつけられて発狂しそうになった。(p507より)

この部分で、いっきに鳥肌がたった。

ゾッとした。

自分だったら到底受け止めきれない、そう思った。

益田も美代子も、鈴木と出会わなければよかった、そうしたらこんな苦しむこともなかったのに…と思う。

でもどんなに願っても、出会ってしまった事実も彼がまっすぐな人間であると感じ親しくなったことも、葛藤する自分の心からも逃げられない。

それは鈴木も同じだ。親しくなり人と深く関わることで相手を傷つけてしまう、でも生きていかなければならない……。

 

この折り合いのつけられなさは、少年犯罪だからというのもあると思う。

少年犯罪だと形状ですら"罪を償った"という事実がない。

未成年だったがゆえにプライバシーを守られ、更生施設で大事に育てられ、社会に出て生きていける……。

更生できたのか?生きてる価値はあるのか?死んだ方がいいのでは?

鈴木が自分の生きる意味について葛藤する場面では、正直かける言葉もないわ、と思った。

しかし最後の益田の鈴木への手紙……

生きていくことで楽しいことや嬉しいことがある。それを体感することで、被害者が本来得られるはずだった時間を奪ったことの罪の重大さを知ることができる。

折り合いのつけられない気持ちを納得させるための文句に過ぎないかもしれない。

でも償いってそういうことなのかな……

生きていくのが辛いと感じるならなおさら、生きていくべきなんだと……

 

鈴木に関わる話以外でも、登場人物たちが過去や自分と上手く向き合えず葛藤する場面が多くある。

逃げるのも、責任を誰かに押し付けるのも簡単だ。人を批判するのも簡単だ。

自分や人と向き合うのは本当に難しく大変だ。拒絶されることは、とても恐ろしいことだから…。

 

 

こんなブログですらどう締めくくればいいかわからないし、何の結論もでない。

どんなに綺麗事並べたって、目の前に凶悪犯罪の犯人がいて、その人の幸せ願えるかって?無理だよ、ねぇ。でも大切な友人だったら…?泣くよ、逃げたいよ、ねぇ……。

 

難しい題材に真摯に向き合い書き上げた著者を尊敬します。

私も、真実から逃げない人間でありたい。

虚ろな十字架

『虚ろな十字架』東野圭吾

(2017年、光文社文庫)(2017/08/08読了)

 

※ネタバレ注意

 

 

ブログの内容が伊坂→東野→伊坂→東野となったのですがたまたまです。笑

ただ前回読んだ『死神の浮力』が子供を殺された親の復讐劇の話だったので、今回この本の帯に--我が子を殺されたらあなたは犯人に何を望みますか----と書いてあるのを見てこれは今読むべき本だ、と思って手に取った次第です。

 

この本の中では主に3つの殺人事件が絡み合っています。

一つの事件の犯人は死刑になり実行されて死にました。一つはおそらく死刑にはならない。一つは立件すら出来なさそうだ、という顛末を迎えます。

もっとも死刑になった蛭川に関しては、それ以前に犯した殺人事件での仮釈放中に殺人を犯して死刑になったのですが。

 

このように一口に「殺人」と言っても色々な動機や経緯があり、さらに複雑な事情が絡み合って刑が決められる。

死刑制度は無力だ、そもそも裁きを与えることが無力だ、どうしたら罪は償えるのか、と言った難しいテーマを実に見事に小説としてまとめていると思う。

話の内容は非常に重く暗いが、考えさせられる良い機会になった。

 

 

身近で殺人事件が起きたこともなく、ろくに法律の知識のない私が死刑制度についてあれこれ言ってもしょうがないのだが、あえて今の私が思うことをそのまま書きたいと思う。

 

 

中高生くらいの頃の幼かった私は「どんな理由があろうとも人を殺してはいけない、死刑とはなんて恐ろしい制度だ」と思っていた。

そこから本を読んだりして、大雑把に言うと「被害者の代わりに国が犯人を殺してやっている」と死刑制度に納得するようになった。自分の身内が殺されたらその犯人の死刑を望むことは今や容易に想像がつく。

 

ただ、死刑制度に関してそれ以前の問題が多すぎることは自明の理だ。

小夜子の遺した文章の中で『人を殺せば死刑──そのように定める最大のメリットは、その犯人にはもう誰も殺されないということだ。』(p175)という一文がある。

これを読んだとき、それだ!とすごく納得した気持ちになった。それが真理だ、と思いかけた。

しかし、最後まで読めばわかる。前述した通り、一口に殺人と言っても背景のストーリーは様々だ。

産まれる前もしくは産まれた直後の赤ちゃんを殺した、誰かのために仕方なく殺した、自衛のために殺した、それらを「死刑」にはせずに許してしまうなら、やはり基準はあやふやになり死刑は絶対的なものでなくなってしまう。

 

 

物語の最後の方の町村が沙織の家に押しかけるシーンで、赤ちゃんを殺した事で悲しんだ人は(殺した当人以外)いないのに刑務所に入る事になんの意味があるんだ、というようなセリフを吐く。

また、花恵が史也の償いの人生について必死に訴えかけるシーンがある。刑務所に行っても反省しない人間などいくらでもいる、主人の方がよほど十字架を背負って償って生きてきたと。

 

読みながら思わず視界が滲んでしまった。

法律によって裁かれ、人間の決めたルールに従ってただ形式的に「罪を償う」ことになんの意味があるんだろう。

ただルールに従っていればそれでいいんだろうか。

だからと言って本当の意味で「罪を償う」ことはできるのか…。

 

仮に、誰も悲しまない誰にも迷惑もかけない殺人があったとして、じゃあその人は一体誰の何のために十字架を背負うんだろう。

それこそ、その人によって殺される人をそれ以上生まないため、なのか。

でもその理論だと、包丁は危ないからこの世からなくせ、と言っているのと変わらないのではないか。でも、道端に落ちている木の枝も凶器になり得るだろう。

 

精神異常だったら責任能力が問われなくなる、反省の色が見られれば減刑される。そんな都合の良いルールをルールと呼ぶのか。

 

改めて人が人を裁くことの難しさを感じた。よくよく考えればとんでもないことをしている、と思う。

『死神の浮力』でも言っていた。標識が間違っていることもある、と。

当たり前を当たり前と受け流さず、ルールに従うことの手軽さに甘えない人間になりたい。

テーマがテーマだけにいつも以上に支離滅裂な内容になってしまったのでここで終わりにします。答えは出なくとも、考えることに意味がある。きっと。。

死神の浮力

『死神の浮力』伊坂幸太郎

(文春文庫、2016年)(2017/08/05読了)

 

※※ネタバレ有り※※

 

3日坊主どころか2回しか更新せず、おまけに存在すら忘れていたこのブログ……。

 

 

『死神の浮力』の前作である『死神の精度』は読了済みです。

前作が短編集だったので今回もそうかと思いきや長編でした。しかもかなり長い。

 

サイコパス・本城に娘を殺され、復讐を試みるも散々に、かなり散々にやられる夫婦のお話。筋書きとしては重いし暗い。

しかしそんな暗さを感じさせず、沈んだ心をかろうじて水面に浮上させてくれるのが死神・千葉。このシリーズの良さはなんといっても千葉さんなんだけれど、まぁそれは読めばわかるので置いときます。

 

個人的に、サイコパスにすごく興味があります。欧米では25人に1人、日本でも100人に1人いるとかいないとか。良心がない、共感できない、という特徴があるそうです。

本城はサイコパスという設定なんですが、それにしては少し人間っぽいかな?という印象。サイコパスと密に関わったことがないので知らないけれど。

サイコパスは身近に溢れていると言うし、特に地位が高い人に多いらしいんですが、やっぱりこうして小説で描かれたり実際に事件になるのは狂気的な人ですよね。

これ、先入観の元ですよね。サイコパスが皆、殺人や重犯罪を犯すわけでないんですよね、多分。

それでも重大な事件を引き起こす可能性は高い。そこで思ったんですけど、医療技術が発達して人が生まれてすぐ検査でその人がサイコパスかどうかわかるようになったとしたら、人類は一体その人をどうするんだろう。

現時点ではサイコパスになる原因は、遺伝だとか脳の障害だとか言われているみたいで、先天的なものなら早期発見(?)されてもおかしくない。

サイコパスは病気なのか性格なのか性質なのか。病気なら「治る」し、性格なら「補正される」し、性質なら「どうしようもない」かな。どうしようもないなら……監視下におくか、静かに何もなかったことにするか。

この本を読み始めてからずっとこんなことをぐるぐる考えていて、そしたらサイコパスと話をしてみたくなってきたんですよね。百聞は一見に如かず。サイコパスってどんな人なんだろうな。

 

 

主人公の山野辺遼の父は''その日を摘んで''生きている人でした。その日を摘む、というの「どうせ人は死ぬんだから今この瞬間を楽しんで生きる」というような意味らしい。そのあたりのエピソードを読んだ次の日、もうそれはそれは物凄く仕事にやる気がでませんでした……。一体私は何が楽しくてこんなことをしているんだ、というような、、

また、「人間は、動物の中で唯一、死を知る存在である」というセリフがあるのですが(厳密にはパスカルの言葉、らしい)、将来を予測しながら生きているという点では本当に人間はかしこくて、馬鹿だなぁ……と。私は死を他人事のように感じているからこそ、その日を摘んで生きてはない気がします。明日死ぬかもしれないから毎日楽しく生きよう!なーんて意気込むより、明日急に死ぬわけもないし今日もてきとーに生きてよ、くらいの方が私は気楽です。これは性格ですね。補正する気もないので来週も働くわけです。。

というかさっきのセリフ、読んだときはなるほど!と納得したのですが、本能レベルでは動物の方が自分の死を知っているような気がします。人間みたいに自分を買い被っていないから、人間より死を避けるのが上手い。死を避けて生きている。

人間は寿命でもないのに本当に呆気なく死にすぎる。

 

 

なんてことをぼんやり考えながら読み終えました。最後のページの「晩年も悪くなかった」という千葉さんのセリフ。必死に生きている人って人間らしくて良いですよね。

私が後先も考えず必死に生き始めたら……寿命かもしれない。

夢幻花

※ネタバレをしています、未読の方はご注意下さい⚠️

 

『夢幻花』東野圭吾

(PHP文芸文庫、2016年)(2016/12/14読了)

 

両親が東野圭吾好きで、中学生の頃に本棚にあるやつを片っ端から読んでいたのですが、最近はたまにしか読まなくなりました。今回は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』以来の東野圭吾でした。

 

 

『夢幻花』のなかでキーなるのは''黄色いアサガオ''です。

黄色いアサガオはこの世に存在しない、というのを私は初めて知ったのですが、これは割と広く知られた事実なのでしょうか?

この世に存在しない、くらいだと「あぁ青いバラみたいなものか」という感想なのですが、青いバラと黄色いアサガオはどうやら意味的に全然別物らしい。

なんでも、青いバラはそもそも元からこの世に存在していないが、黄色いアサガオはかつて確実に存在したのに、何らかの理由で絶滅したらしい。そしてその理由は不明である…。

さらに、(ネタバレします)

一部のアサガオのタネには薬物のような幻覚作用があるという……。

 

 

いやはや、こんな事実、この本を読まなければ一生知らずに死んでいたと思います。そもそも、変化アサガオなんて知らなかったです。少しインターネットで検索してみましたが、こんなアサガオがあるんですね。素直にとても美しいと思いました。

 

ミステリー小説の良さってここなんですよね、個人的に。

ただ普通に生きてるだけでは知り得なかっただろうことに不意に出会える。これが楽しくてしょうがないです。どんなに面白そうなことでも、それが面白そうだと気付けるきっかけがなければ、一生それを知らずに人生を終えてしまいます。

少しでも多くのきっかけをくれるミステリー小説が、私は大好きです。

 

やたら褒めてしまいました。

 

話を戻しますが、この本のなかではいくつかの事件(謎)が起きます。

  1. 夫婦とその子供が日本刀をもった何者かに襲われる(プロローグ)
  2. 梨乃の従兄弟・尚人が突然自殺する
  3. 梨乃の祖父・秋山周知が殺される

「死」にまつわるもの以外だと

  1. なぜ秋山周知は黄色いアサガオを咲かせられたのか
  2. 蒼太の兄・要介の行動の謎
  3. 周知の家から黄色いアサガオが盗まれていること
  4. 孝美が忽然と姿を消したこと

 

ざっとこんな感じでしょうか。

読んでいる間、秋山周知を殺したのは誰か、なんてこと全然考えてませんでしたね…。全ての謎は黄色いアサガオが握っている、という感じでした。

読ませる小説ってこういうものですね。久々に一気読みしてしまいました。

 

本筋以外のストーリーも、なかなか考えさせられるものがありました。

バンド活動をしていた死んだ尚人とその親友雅哉は、黄色いアサガオのタネを摂取して曲を作ることで天才気分を浸っていた、という何ともありそうな話です。

実際に、著名なアーティストが薬物依存で話題になったりしてますよね。

でも、薬物の力を借りていたとしても、それで人々を感動させるような曲を作れるならそれでいいんじゃないか。いやいや、その人の才能だと信じてファンになったのに薬物のおかげだと知ったらショックに決まっている。

…なんて複雑な気持ちになります。

まぁそもそも、良い曲を書けなくなると思ったら怖くて薬物依存がとまらない、なんて状態は良くないに決まっているので良くない話ではあるんですけれど。

素の自分で勝負できるのが、一番に決まっています。

 

そことも少し関連するのですが、最後の方で才能に関する会話があります。

「尚人がよくいってたんだ。梨乃は馬鹿だって。せっかく才能があるのに、それを無駄にしている。梨乃は水泳選手として生きていかなきゃいけない。才能を与えられた者の義務だ。それを重荷に思っているとした贅沢だ。何の義務も与えられていないことがどれほど虚しいか、梨乃はわかっていない――」

これは、オリンピックを目指せるほど水泳の才能があったにも関わらず挫折してしまった梨乃に対して、尚人が生前に言っていたセリフです。(それを雅哉が伝えている場面です)

 

''才能を与えられた者の義務'' 

これは極端なのかも知れないけれど、なるほどなぁ…という感じです。

「天才は1%の才能と99%の努力」なんて言葉がありますよね。才能が皆無の私から言わせてもらうと、その1%の才能があるかないかで本当に違う。全然違うんです。

そもそも才能どころか努力もできない私がそんなこと言う資格は全くないし、努力家の天才には怒られてしまうかもしれないけれど、本当にそう思います。才能があるかないかの違い。

加えて、尚人も言っているけれど、そんな天才が近くにいるかどうかもかなり大きいです。「ただ好きだから、楽しいから」という理由だけで初めたことも、近くに天才がいると「これは自分がやる必要があるのか?」というような気持ちになってしまうような気がします。自分でも、書いてて言い訳してるようにしか見えませんけどね。

まぁ何が言いたいかというと、才能を持ち合わせた天才さんには、せいぜいその才能に気付いて感謝してその道を極めてほしいです。

何様なんですかね私は。 

「努力し続けられること」もある意味才能だと思っているので、才能もあって努力もできる人なんて、私からみれば神のような存在です。頭があがりません。

 

 

そういうわけで、やっぱり大御所は違うな、と思う一冊でした。文句なしで面白かったです。

加賀恭一郎シリーズを読もうかなぁなんて思っています。

残り全部バケーション

初めまして。みもれと申します。

ふと思い立って、ブログを始めることにしてみましたが、文章を書くのがとても苦手ですので、読みづらかったらすみません。

 

 

読書家といえるほど読書量は多くありませんが、主にミステリー小説を好んで読みます。

このブログでは、私が思ったことを思いつくままにかくつもりです。

つまり書評のような大層なものにはなりませんので参考にしないでください。

 

前置き終了します。

 

 

さて、タイトルの通り、

『 残り全部バケーション』伊坂幸太郎

(集英社、2012年)(2016/12/11読了)

を読みました。

 

 

伊坂さんの本を読むのはこれで10冊いくかいかないか程度。初めは好みじゃないと思ったけれど今やすっかり虜です。

 

伊坂さんはよく、世の中の''暗''の部分で活躍するような人たちにスポットをあてた話をかきます。今回は裏稼業コンビ、溝口と岡田を巡る連作短編集。

 

当たり前ですが、詐欺やら暴力やらという一般的に「悪いこと」はしては「ダメ」です。ふつう私たちはそういうことをする人たちに感情移入しませんし、ニュースなどで見かけたら自分とは無関係でも怒るものです。

なのに、なのにどうして溝口も岡田もこんなにも魅力的な人たちなのか…。

やってることは、悪い事。でもこの人たちは悪い人、なのか?

 

読んでいると、私のほうがよっぽど悪い人なのではないかと思ってしまいます(犯罪には手を染めていませんけれど)。

 

結局、どんなことをしていようと、真っ直ぐに生きているひとは魅力的なんだと思います。「自分の信じた道を真っ直ぐ進む」なんて案外難しいものです。情報過多の世の中ですから…。

友達の少ない(いない?)岡田には、ある意味余計な情報は入ってこなかったのかもしれませんね。

 

 

1章から5章までのお話、どれも好きです。

岡田の小学生時代の話である「小さな兵隊」はかなりお気に入りです。

でもやっぱりこの物語を全体として盛り上げているのは「飛べても8分」だと思います。

 

なんにも考えてなさそうな溝口がとんだ策士として反撃にでていてびっくりですよ。

-人を騙すには、真実とか事実じゃなくて、真実っぽさなんですよ(第二章 タキオン作戦より)

これですよ、本当に。こういう感じのセリフ回し、何かの小説でも見かけた気がします。

初めから偽の解答を提示されるより、真実っぽい要素を散りばめられた方が、勝手に偽の答えにたどり着いてしまうんですよね。

騙す騙さないは置いといても、噂がどんどん広まって行く過程って、これに似たものがあるような気がします。

 

あともう一つ。

-相手の弱みを突いたり、ミスにつけ込んだりするんじゃなくてな、相手を喜ばせて、貸しを作ろうってことだよ(第五章 飛べても8分より)

これですよ、本当に…。私はこれが怖くて、人に貸しを作るのが苦手です。私の場合は、もっと人のこと信用しろよって感じではありますが……。

なにか申し訳のない気持ちのある相手に対しては、どんな些細なことでも役にたとうとしてしまいますよね。

でも、恩を受けたときって、その恩を相手に直接返す必要はないと思っています。他の誰かに親切にすれば、結果的に世の中皆が誰かに救ってもらえる。AとBの2人の間で完結するんじゃあ勿体無いと思います。

というか、2人の間で完結しようとするから「利用される」という事態になりかねないのだと思います。

 

 

そしてそして、この本の良いところは終わり方です。結末が書かれておらず、あとは読者にお任せします、という感じで終わっています。

私はこの終わり方にグッときました。

このあと毒島は溝口に殺されるのか?そして溝口は悪事から足を洗うのか?

私もインターネットをのぞいて人様の考察なんかを読ませていただきました。

根拠とかないけれど、タイトルが『 残り全部バケーション』なんですよ。毒島も溝口も岡田も高田も、残りの人生全部バケーションであるはず、あってほしい…と思います。

読後は、そんな登場人物たちの今後を幸せを願える良い余韻にひたれました。読後感の良い本は、思い出に残ります。

 

 

 

 

私の文章、読点が多いですよね。おそらく、思考のスピードが遅いせいです…。

そして書くのにものすごく時間がかかりました。3回坊主にならないか心配ですが、よろしくお願いします。