めびうすのわ

読書日記という名の思考整理ブログ

虚ろな十字架

『虚ろな十字架』東野圭吾

(2017年、光文社文庫)(2017/08/08読了)

 

※ネタバレ注意

 

 

ブログの内容が伊坂→東野→伊坂→東野となったのですがたまたまです。笑

ただ前回読んだ『死神の浮力』が子供を殺された親の復讐劇の話だったので、今回この本の帯に--我が子を殺されたらあなたは犯人に何を望みますか----と書いてあるのを見てこれは今読むべき本だ、と思って手に取った次第です。

 

この本の中では主に3つの殺人事件が絡み合っています。

一つの事件の犯人は死刑になり実行されて死にました。一つはおそらく死刑にはならない。一つは立件すら出来なさそうだ、という顛末を迎えます。

もっとも死刑になった蛭川に関しては、それ以前に犯した殺人事件での仮釈放中に殺人を犯して死刑になったのですが。

 

このように一口に「殺人」と言っても色々な動機や経緯があり、さらに複雑な事情が絡み合って刑が決められる。

死刑制度は無力だ、そもそも裁きを与えることが無力だ、どうしたら罪は償えるのか、と言った難しいテーマを実に見事に小説としてまとめていると思う。

話の内容は非常に重く暗いが、考えさせられる良い機会になった。

 

 

身近で殺人事件が起きたこともなく、ろくに法律の知識のない私が死刑制度についてあれこれ言ってもしょうがないのだが、あえて今の私が思うことをそのまま書きたいと思う。

 

 

中高生くらいの頃の幼かった私は「どんな理由があろうとも人を殺してはいけない、死刑とはなんて恐ろしい制度だ」と思っていた。

そこから本を読んだりして、大雑把に言うと「被害者の代わりに国が犯人を殺してやっている」と死刑制度に納得するようになった。自分の身内が殺されたらその犯人の死刑を望むことは今や容易に想像がつく。

 

ただ、死刑制度に関してそれ以前の問題が多すぎることは自明の理だ。

小夜子の遺した文章の中で『人を殺せば死刑──そのように定める最大のメリットは、その犯人にはもう誰も殺されないということだ。』(p175)という一文がある。

これを読んだとき、それだ!とすごく納得した気持ちになった。それが真理だ、と思いかけた。

しかし、最後まで読めばわかる。前述した通り、一口に殺人と言っても背景のストーリーは様々だ。

産まれる前もしくは産まれた直後の赤ちゃんを殺した、誰かのために仕方なく殺した、自衛のために殺した、それらを「死刑」にはせずに許してしまうなら、やはり基準はあやふやになり死刑は絶対的なものでなくなってしまう。

 

 

物語の最後の方の町村が沙織の家に押しかけるシーンで、赤ちゃんを殺した事で悲しんだ人は(殺した当人以外)いないのに刑務所に入る事になんの意味があるんだ、というようなセリフを吐く。

また、花恵が史也の償いの人生について必死に訴えかけるシーンがある。刑務所に行っても反省しない人間などいくらでもいる、主人の方がよほど十字架を背負って償って生きてきたと。

 

読みながら思わず視界が滲んでしまった。

法律によって裁かれ、人間の決めたルールに従ってただ形式的に「罪を償う」ことになんの意味があるんだろう。

ただルールに従っていればそれでいいんだろうか。

だからと言って本当の意味で「罪を償う」ことはできるのか…。

 

仮に、誰も悲しまない誰にも迷惑もかけない殺人があったとして、じゃあその人は一体誰の何のために十字架を背負うんだろう。

それこそ、その人によって殺される人をそれ以上生まないため、なのか。

でもその理論だと、包丁は危ないからこの世からなくせ、と言っているのと変わらないのではないか。でも、道端に落ちている木の枝も凶器になり得るだろう。

 

精神異常だったら責任能力が問われなくなる、反省の色が見られれば減刑される。そんな都合の良いルールをルールと呼ぶのか。

 

改めて人が人を裁くことの難しさを感じた。よくよく考えればとんでもないことをしている、と思う。

『死神の浮力』でも言っていた。標識が間違っていることもある、と。

当たり前を当たり前と受け流さず、ルールに従うことの手軽さに甘えない人間になりたい。

テーマがテーマだけにいつも以上に支離滅裂な内容になってしまったのでここで終わりにします。答えは出なくとも、考えることに意味がある。きっと。。